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「『死』を考え『生』を考える」


 最近「就活」や「婚活」と並んで「終活」という言葉があることを知りました。自分の人生の最期に、葬儀をこの様にして欲しいとか、財産はこうして欲しいとか、を残された人に伝える遺言の様なもののようです。しかし、「何故、自分は生まれて来て、今ここにいるのか。」その理由が解らなければ真の「終活」を行うことはできないのではないでしょうか。つまり生まれてきて、今ここに生きている「目的」を知ることです。

最近、私たちの教会で葬儀がありました。天に召されたその方は、80才の教会員の方で、生前の祈りは「一日一日を大切に過ごすことができますように。」という祈りでした。私たちに今も語られている遺言とも言える祈りです。私は葬儀に参列して、厳粛な「死」に直面し、自分に残された命の日々を、どのように生きるべきかを考えさせられました。

皆さんはキリスト教の葬儀に参列したことがありますか。葬儀は故人を偲び、故人に感謝する時でもあります。また自分の生と死を深く考える時でもあります。そこにはこの地上での別れを惜しみ、静かな悲しみがありますが、永遠の命を得て天の御国に召されたという確固たる希望があります。

あなたにとって「終活」とは何でしょうか。命を与え、命を終えさせる神を畏れ、感謝の心で「一日一日を大切に過ごすことができますように。」と祈ります。

聖書にこの様な「たとえ話」があります。ある金持ちが大きな倉を建て、穀物や財産をみなそこにしまいました。そして自分のたましいにこう言うのです。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」しかし神は彼に言われたのです。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」人生をこの様に生きてはならないという「たとえ」です。

葬儀は「死」を考える時であり「生」を考える最も大切な時なのです。あなたも、何故生まれてき今ここにいるのか、その「目的」を聖書から一緒に探してみませんか。(ルカ12:16~21)


(2013年 通巻112号)


 
 
 

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