「いじめ問題を考える」
- Masato Ujiie
- 2012年10月20日
- 読了時間: 2分
「いじめ」という言葉を聞かない日はないほど、毎日のようにこの問題が取り上げられています。しかし、これは子どもの世界の話だけではありません。パワハラ、セクハラ、DV、児童虐待、高齢者虐待など、場面や状況によって、「いじめ」はさまざまな呼び名に姿を変えます。
リストラの際も、いじめのような手段が使われることがあります。このように考えると、「いじめ」は残念ながら私たちに普遍的な問題であり、誰もが被害者や加害者になりうる問題と言えるのではないでしょうか。
いじめの被害者は、大変な苦しみの中に置かれ、精神的な病気になったり、時に死を選ぶこともあります。
尊い犠牲が出るたびに、社会的な取り組みの必要が叫ばれ、さまざまな制度が出来たり、相談窓口が置かれたりします。
このような知恵と忍耐を必要とする継続的な取り組みは絶えず求められています。このような不断の努力と同時に、私たちは問題の本質にも目を向ける必要があります。
聖書にはこの問題の解決に至る言葉がたくさんあります。「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」(ローマ12:10)「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい
(レビ19:18)「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12) このような言葉のうちの一つでも、完全に実行できるのなら、「いじめ」問題は解決するはずです。しかし、このようなことばを教えている聖書は、生まれたままの私たちは、それを実行することができないということを同時に教えています。よい言葉と同時にそれを実行できない自分自身を認めること。この両方を認めることから、解決がスタートすることを教えています。
近く札幌希望の丘教会(札幌市豊平区福住3条5丁目1-48)では、いじめ問題を取り上げた講演会を開催します。どなたさまもぜひお越しください。
日時:10月27日(土)午後2時から
テーマ:「クリスチャン校長が語る子ども理解~親子関係と学校教育を考える」講師:北海道教育大学教職大学院 竹本克己教授
(2012年 通巻 69号)
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