top of page

「たとい、だれも見ていなくても」


良い行いをすると、誰かにそのことを話したくなる、という経験は誰にでもあると思います。例えば、地下鉄で座っているとお年寄りが乗ってきたので席を譲ってあげたこととか、道端にごみが落ちていたので、それを拾ってゴミ箱に捨てたこととかを、誰かに知ってもらって褒めてもらいたい、という気持ちです。

私もそうです。私は教員をしており、8時15分の始業に対して7時30分には出勤しているので、朝のうちに済ませなければならない仕事があれば、自分のクラスの仕事を終えたあとに他のクラスの分もすることがあります。そういう時は、あとから来た先生たちが気づいてくれて、感謝の言葉を言ってくれることを心のどこかで期待しています。でも、人からほめてもらいたいと思って良い行いをすると、その行いは良い行いではなくなってしまう、ということを聞いたことはあるでしょうか。

新約聖書のマタイの福音書第6章1節に次のように書いています。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。(中略)施しをするときは、右の手のすることを左手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いて下さる。」

聖書によると、右手がすることを左手にも知らせてはいけないのです。なかなか難しいことではありますが、考えてみると、人の見ているところでは善い行いをし、人の見ていないところでは、悪い行いをする、というのがいけないことだとは分かります。であれば、いつも神様が見て下さっていると思えば、誰も見ていなくても、良い行いをし、悪い行いはしないようになると思います。皆がそう心がければ、世の中はもっと住みやすくなるのではないでしょうか。


(2016年 通巻223号)

 
 
 

Comments


© 2018 札幌希望の丘教会. Wix.com

bottom of page