勉強や仕事をする際に、目標を持つのは良いことです。目標がはっきりしないと、時間を無駄に過ごしたり、どこまで進んだか分からないまま中途半端に終わったりした経験はどなたにもあることだと思います。けれどもその目標が、今の自分の能力とかけ離れたものだと、その目標を達成することが出来なかったときの失望感やダメージが大きく、目標達成のための努力が却ってマイナスになることもあります。
私にも同じような経験があります。以前テニス部の副顧問をしていた時のことです。当時の主顧問はテニスが上手で、試合に勝つためのアイディアが豊富で生徒からの信頼も厚く、バイタリティがあって土日返上で指導をしていました。私は彼を見習って努力しました。私は自分に出来ないことは教えられないと言う考え方だったので、まずはテニススクールに通いました。部活動にも極力参加し、主顧問の指導方法を観察しました。しかし副顧問になって1年以上が過ぎてもテニスはさっぱり上達せず、指導方法も分からず、気持ちばかりが焦り、いつしかそれが負担となって他の仕事にも影響が出るようになりました。
ここでの私の間違いは、最初に定めた目標が高すぎたことです。私はそのベテラン教員の基準を自分の目標としてしまったことで、その目標に全く近づくことの出来ない自分に苛立ち、それがストレスとなってしまったのです。ここでもし私が、自分のレベルをわきまえてもっと低いところに目標を定めていれば、この経験は自分にとってプラスになっていたかもしれません。
聖書では以下のように伝えています。「私たちは…だれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。…自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです(コリント人への手紙Ⅱ第10章12節)。」私たちはつい他人と自分を比べてしまいがちです。もし皆さんの中で、周りの人が出来るのに何故自分は出来ないのだろうと悩んでいる人がいれば、この聖書の言葉を思い出してください。神様は聖書に「すでに達しているところを基準として、進むべきです」とあるように、今の自分の出来ることを基準にして、そこからスタートすることを勧めて下さっているのです。
(2015年 通巻179号)
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