結婚ゆび輪はいらないといった 朝 顔を洗うとき
私の顔をきずつけないように 体を持ち上げるとき
私が痛くないように 結婚ゆび輪はいらないといった
今、レースのカーテンをつきぬけてくる 朝陽の中で
私の許に来たあなたが 洗面器から冷たい水をすくっている
その十本の指先から 金よりも銀よりも 美しい雫が落ちている
これは星野富弘さんの詩です。結婚された星野さん夫妻の美しい情景が、絵画のように表現された珠玉の一篇です。今回は聖書が教える結婚観がよく表現されている創世記24章から、イサクの結婚について見てみたいと思います。
神に愛され、信仰の父と呼ばれるアブラハムと妻サラがいました。二人はすでに年老いていましたが、神が約束されたとおりにサラは身ごもり、アブラハムに男の子が与えられたのです。彼はその子をイサクと名づけました。
イサクが成長し大人になった時、アブラハムは、一番信頼している部下に命じ、自分の生まれ故郷にイサクの妻となる娘を探しに行かせます。部下は、神が定めた妻となる娘が誰なのかわからないため、神に教えてくださるよう具体的に祈りました。そして娘たちが水を汲みに来る井戸のところまで導かれたのです。そこにリベカという美しい娘が現われました。部下は声をかけます。「あなたの水がめから水を飲ませてください」 娘は答えます。「どうぞお飲みください。あなたのらくだにも水を汲みましょう」 部下はこの娘が神の定めた人だと確信します。それは、リベカが働き者であって配慮のある人であること、また具体的に祈ったとおりにリベカが答えたからでした。
部下はリベカの家族に会い、旅の目的の一部始終を話しました。彼らはリベカに質問しました。「この人と一緒に行くか」リベカは「はい、行きます」と答えました。帰路につき、途中でリベカはイサクと会い、部下は、自分がしてきたことを残らずイサクに話しました。
聖書は次のように記しています。「イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカを迎えて妻とし、彼女を愛した。」 (創世記24:67)
先日、この箇所から結婚についての宣教の中で、「順番が大切である」と教えられました。まず、神が定めた女性であること、私のところに来て一緒に歩む女性であること、そして結婚してから、妻を生涯愛するのですと。
あなたも聖書から結婚について、考えてみませんか。
#(2019年 通巻370号)
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