時代や洋の東西を問わず、時の権力者やリーダーが自分たちに都合の悪い情報を隠したり、ゆがめたりするのは、残念ながらよく見られることです。
一方で、聖書には人の失敗や問題が包み隠さず書かれています。例えばイスラエル人の偉大なリーダーであったモーセが、性急に行動して人を殺してしまった例や、イエス・キリストが人々に捕えられる危機に陥った際に、後に初代教会の指導者となった弟子のペテロが、イエス様を知らないと言って逃げた例など、指導者の失敗もそのまま記述しています。
本当は隠しておきたいこのような記録が、なぜ聖書にはそのまま書かれているのでしょうか。聖書にはこうあります。
「私は良い教訓をあなたがたに授けるからだ。私のおしえを捨ててはならない。」(箴言4:2)
現代は、聖書が書かれた時代とは文化や習慣も違いますが、私たちが直面する問題の多くは、かつて先人たちが経験した問題と本質的には共通するものです。私たちはその数々の失敗の例から、自分にも似たような問題があることに気づいて反省させられたり、実際に失敗に陥った際に、どのように対処するのがよいかヒントを与えられることもあります。時には失敗から立ち直った良い模範から影響を受けます。
神様は、それら個々の出来事を、良いことも悪いことも、教訓として聖書に収めるようにしたのだと思います。「失敗学」という学問があるそうです。失敗に学び、同じ愚を繰り返さないようにするにはどうすればいいかを考える学問であるようです。ある人は聖書を称して「聖書は失敗学の教科書だ」と言いました。
誰もが失敗を犯します。そういう意味では、歴史を通して都合の悪い情報も包み隠さず記述している聖書は、私達人間が生きていくために必要な事柄が詰まった教科書と言えるのではないでしょうか。是非、聖書を読んで神様の知恵に触れてみませんか?
(2014年 通巻168号)
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