筆者には1歳を少し過ぎた小さな子どもがいます。日々の成長がとても喜ばしいのですが、少しずつできることが増えてくるにつれて、しつけをしなければならないことが出てきました。親の顔を叩く、食べ物を投げ捨てる、テーブルに足を乗せて上がる、等々。このようなことを行った場合、何度か注意しても止めなければ、厳しく叱ることが必要なこともあるでしょう。子どもを叱るのはとても辛いことですが、それは子どもに正しく成長してほしいと願うからこそのものです。しつけは、漢字では「躾」と書きます。身を美しくするためのもの。とても良い言葉だと思います。
職場で仕事をする中でも、上司に叱られたり、また部下を叱らなければならない場面があるでしょう。しかし近年、職場での最も大きなストレスは、人間関係によるものであると言われています。そのような中で、お互いの関係の悪化を恐れて指摘すべきことをしなかったり、また指摘されたことに対して不快感をあらわにする、ということをよく聞きます。しかしそれは、本当に正しいことでしょうか?
叱る側は、例え自分が嫌われ役になったとしても、本当にその人のためになるかどうかをよく吟味したうえで、言うべきことを言わなければなりません。また叱られる側には、その指摘が自分のためであるということを素直に受け止める心が要求されます。
聖書には、次のようなことばがあります。
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」 (ヨハネの黙示録3:19)
この「わたし」とは、神様のことです。神様は自分の困った時だけに頼るような都合の良い存在ではなく、叱ったり懲らしめたりするお方であると、聖書は語っています。そしてそれは、私たちを愛してくださっているがゆえの叱責なのです。
私たちが何歳になっても、たとえどんなに偉くなっても、道を誤らないように正してくださるお方が、私たちには必要です。そのお方がいつも絶対に正しい神様であるのならば、それは何と素晴らしいことでしょうか。
あなたも聖書を通して、神様のことばに耳を傾けてみませんか。
(2017年 通巻292号)
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