先週は、リーダーシップの土台は、「義」であることを見ました。「義」とは正しい言葉や行動、考え方を意味すると紹介されていました。
「義」の反対の言葉は何でしょうか。不正、悪事、不義などという言葉が浮かびます。義が大切であると聖書が指摘するにも関わらず、報道で不正という言葉を見ない日はありません。
「正直者が馬鹿(ばか)を見る」ということわざがあります。この言葉の意味について、辞書は「悪賢い者がずるく立ち回って得をするのに反し、正直な者はかえってひどい目にあう。」と解説しています(デジタル大辞泉)。このことわざは私たちに、策略やずるさを用いて世の中を渡る必要があるとささやきます。世の中、キレイ事だけでは通らないという声も聞こえてきそうです。
しかし、詩篇にはこのような言葉があります。「彼らは不正をたくらみ、『たくらんだ策略がうまくいった』と言っています。しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。」(64:6-7)
これは文字通り神が人を傷つけるということではありません。「義」を追求する人に対し、神が究極的には「馬鹿を見ない」よう保障になってくださることを意味しています。不正をたくらむ者の問題は、神が見ていることを忘れることだと聖書は教えています。詩篇の続きはこう結びます。「正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。」(64:10)
一見すると不利に見えるようでも、私たちが「義」を追求することができる理由がここにあります。
聖書は、私たちの発想とは逆転の知恵に満ちています。自分の立場を弱くするように思える「謙遜」が成功のカギとなるというのも、その一つかも知れません。HFBは「謙遜」をテーマとしたセミナーを予定しています(表面)。どなたさまも是非ご参加ください。
(2014年 通巻162号)
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