先日、子ども関係の行事が教会でありました。ゲームにも子どもたちは喜んで参加していましたが、終わった後に幼い男の子がゲームで負けたことで泣いていました。するとその子のお姉ちゃんも隣で泣いていました。「弟がかわいそう」という理由のようでした。私はとても感心しました。弟のためとは言え、大人でもなかなか出来ることではないと思いました。
他者への同情や共感が必要なことは分かっていても、実際はとても難しいことです。例えば深刻な病の中にいる人、虐待やいじめで苦しんでいる人、突然失業した人の気持ちを、そうではない人が理解できるかと言えば、恐らく難しいでしょう。誰にも理解してもらえない悩みを抱え、孤独感を深める人の中には、心の病を抱えてしまう人もいるかも知れません。
しかし、歴史上ただ一人、どのような人の苦しみも理解し、寄り添ってくださる方がいることを聖書は教えています。イエス・キリストが誕生する約700年前に書かれた聖書のイザヤ書には、救い主の到来を預言した次の言葉があります。クリスマスに読むのにふさわしい聖書個所でもあります。
「彼は蔑(さげす)まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:3-5)
人類の救い主は、人々が期待するような見栄えはなく、反対に人々から蔑まれ、のけ者にされた悲しみの人とあります。ここには自身を蔑んだ人々の病や痛み、そして罪を担って苦しむ救い主の姿が描かれています。
人類のすべての問題を背負って苦しまれた救い主だからこそ、私たちの悩み苦しみに同情し、寄り添うことができます。ここに真の慰めと癒やしがあります。
イエス様のご降誕を祝うクリスマスのこの時期、ぜひお近くの教会に足を運んでみてください。ご一緒にクリスマスをお祝いしましょう。
(2024年 通巻483号)
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