最近、耳鳴りがするようになり、先日、検査入院しました。3日間の入院でしたが、普段は持てないまとまった時間が与えられ、いろいろなことに考えを巡らす貴重な機会となりました。
耳鳴りというものは不快なもので、眠っても熟睡感がありません。どうしても朝早く目が覚めてしまいます。
とりあえず検査が終わり退院し、いろいろな方からお見舞いの言葉をいただきました。ありがたいと思いましたが、その一方で、「私も同じだよ。年をとると、早く目が覚めるからね」と言ってくださる方がいらっしゃいました。私にしてみれば決して同じではないのですが、人と同じ立場に立って話すこと。つまり「同情」することの難しさを思いました。
なってみないと分からないこともあります。私も過去にさまざまなご病気の方に接しましたが、どれだけその方の立場に立って考えることができたでしょうか。
このことを思う時、次の聖書の言葉を思い出しました。「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと」(イザヤ書53章4節)
これは、イエス・キリストの誕生の約750年前に、イザヤという預言者が、キリストのことをすでに見ているかのように正確に描いている預言の言葉です。このイザヤ書53章には、私たちの病や痛みを担い、十字架の苦難をしのばれたイエス・キリストの生涯がエッセンスのように描かれています。
事実、イエス・キリストは預言の通り生まれ生きて死に、そして復活されました。
私たちの経験には限界があり、さまざまな苦しみの中にいる人々の立場に、本当の意味で立つことはなかなか難しいものです。
しかし、歴史の中で実際にすべての人々の苦しみを担ったイエス・キリストが、私たちの人生の暗闇の時にも、真の同情者となってくださるのを見出します。
このとき、聖書のさまざまな励ましの言葉、いやしの言葉が、本当の意味で人々の心に響くのだと思います。
(2012年 通巻 63号)
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