筆者は66才。年齢においては人生の下り坂、時に転びそうにもなります。記憶力が低下し、視力が衰え、筋肉や関節が痛く湿布のお世話になる日も多くなりました。老化の結果は数え上げれば切りがありません。若き日を思い、寂しくなることもあります。しかし最近は、自分に残されているものに注目し、感謝できるようになりました。
先般、当教会で葬儀がありました。長い闘病生活の中で、イエス様に寄り頼み、神を賛美しつつ神のもとに帰っていった方でした。告別式の中で紹介された、淀川キリスト教病院チャプレンの藤井理恵先生のことばが、強く心に残りましたので、ここに記します。
「年を取ると聞こえなくなった。歩けなくなったと不満がでます。それをマイナスと捉えるのは人の価値観です。そうではなく、自分で得たものではない聴力や歩行能力をちょっとお返しする。いただいて預かったものを手放し、次々に返していって、最後は魂一つになって、神様のもとに帰ってゆくと考えてみるのです。『どうすれば自分の死を受けいれることができますか』とよく尋ねられます。
死を受けいれるということは、人生が『与えられたものである』と了解していくときに可能になっていくのでしょう。与えられた命をもって生まれて、生きて、死んでゆく。そのプロセスの中で死を終点と捉えれば『自分が無くなってしまう』となりますが、帰るのであれば、その先も続きます。私はそう信じ、ここに希望を見いだしています。」
強く感銘をうけた言葉でした。更に星野富弘さんの一篇の詩を思い出しました。
必要なものは 天から頂きました
これ以上 ほしいものはありません
枯れてゆく秋の花 一番幸せな時です
もうすぐクリスマスがやって来ます。あなたも、クリスマスに教会に足を運んでみませんか。老いてもなおその先に希望があることを、聖書のことばに聞いてみませんか。その中に、必ず生きる希望を見い出すことができるでしょう。イエス様はそのために来られたのですから。
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。・・・あなたはこのことを信じますか」(ヨハネ11:25,26)。
(2019年 通巻381号)
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