先日NHKのあるテレビ番組を見ました。親が残した財産を分ける際のトラブルについての番組でした。初めは興味本位で見ていましたが、仲が良いと思われた家族がお金の問題となると、骨肉の争いとなる姿に愕然となりました。しかしそこには、次第にひきこまれている自分の姿もあったのです。
次に、ある夫婦と夫の母と3人で暮らす家庭の話が続きました。夫がなくなった後、その妻は長男の嫁としての務めを果たそうと、老いた義母を看取り、最後までずっと面倒をみたそうです。しかし義母がなくなった後、一度も世話をせず看病にも来なかった夫の弟や妹が現われ、財産を分ける話になりました。弟は通帳を見て、「お金はこれだけなのか、もっとあるはずだ。あんな他に知らないか」と言い、彼女は疑いをかけられたのでした。結局、彼女に対して感謝の言葉もなく、一円のお金も与えられませんでした。
このような事態にならないために、今からできる事をしましょうというのがこの番組の目的だったと思いますが、果たして、成すべきことを準備すればすべて解決するのでしょうか。
人は誰でも思うのではないでしょうか。「私の中にも同じ思いがあるのではないか」と。お金をめぐっての争いは、財産を残した親にとっても、見ている者にとっても悲しいことです。
聖書にはこう書いてあります。
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(箴言17・1)
また聖書は警告しています。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」
あなたも聖書の中に「自分の姿」と「幸せとは何か」を探してみませんか。
最後に、星野富弘さんの一篇の詩をご紹介いたします。
柚子の皮をきざんで
小さなかけらのかおりを愛しむ
その同じ私の中から
憎しみや欲望が湧いてくるのだから
(ユズ 1998)
(2017年 通巻266号)
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