最近、パトリック・マケリゴットさんのお話を聞く機会がありました。マケリゴットさんは長い間京都付近で、キリスト教の宣教師として働きました。その間、キリスト教放送やNHKのテレビ番組に出演したり、学校やPTAから講師として招かれ全国で講演をしています。また、ロンドン大学で日本語を学び、ライフワークである小林一茶の俳句の研究を通して、博士号を取得しました。
お話は「一茶の俳句から学べること」というテーマでした。次の俳句が引用されました。
「蓮(はす)の花 虱(しらみ)を捨(すつ)るばかり也」
この句の背景ですが、若い頃に貧しかった一茶には居場所がありませんでした。寝るところを借りながらあちこち放浪していたせいで、虱にたかられてしまいました。ある日、一茶は美しい蓮の花を眺めていましたが、虱がかゆくて、結局虱を払うことに夢中になってしまったようです。
さまざまな側面から、この句は私達に真実を語ってくれます。目の前には、美しい良いことがあっても、同時に、回りには、シラミのように、その良いことから私達の目をそらせる問題がいつもある、というような日常経験にも通じる響きもあるようです。
また、私達がすることもこの句に似ています。蓮の花を見て美しい句を作ろうとしても、結局はシラミを払うのに夢中になるというように、自分がしたくないことをしてしまいます。
パウロというクリスチャンのリーダーは良いことをたくさんしましたが、どうしても自分が悪いことをしてしまうことに気が付いて次のように書きました。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(ロマ7:15、19)
私達の存在や行いに関して、一茶とパウロは大切なことを教えてくれます。「どうしても悪いことをしてしまう自分」これは自分の弱さを認めないと改善できません。パウロは自分では改善ができないことを素直に認め、そのような状況から救い出される必要があると認めて、イエス様を信じたのです。あなたも、その救いを受けてみませんか。
2012年 通巻 67号)
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