top of page
検索

「目からウロコが落ちる話」

 司馬遼太郎さんの『歴史のなかの邂逅』という本の中に、「川あさり十右衛門」という目からウロコが落ちる話があります。江戸でひとはた挙げようとした若者が、うまくいかず帰ることにしたのですが、宿で出会った老人に「江戸には宝の山がある。宝が見えないのは宝を見ようとしないからだ。」と言われ、もう一度頑張ろうと江戸に戻ることにしました。途中でおびただしい瓜やナスが浜辺に漂っているのを見ました。これは江戸の町民が川に捨てたもので、今でいう食品ロスでしょう。若者はこれを拾い集め、きれいに洗い、漬物にして江戸で行商を始めました。すると、土木工事場の土工や人足に飛ぶように売れ、彼はやがて材木商となり、江戸一の大富豪となったのです。ついには苗字帯刀を許され「河村瑞賢」と名乗りました。目からウロコが落ちるとは、誰も目をつけない浜辺に漂っていた瓜やナスに瑞賢が目をつけたように、物事の実態などがよく見えて理解できるようになることを言いますね。

 この言葉の起源は聖書にあります。イエス・キリストの死後、弟子たちはイエスの教えを伝えてキリスト教が広まっていくのですが、そんな様子を苦々しく思っていた一人の男がいました。その名はパウロといいます。彼は当時のユダヤの教えに熱心で、その時代の一流の学者に師事し、聖書の教えに通じていました。

 パウロは、急に広まったイエスの教えは間違った教えだと考え、イエスの弟子たちを捕えて監獄に入れる働きを始めました。そんなとき、ダマスコという町の近くに来たとき、突然天から「パウロ、パウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声が聞こえ、天の光で彼の目が見えなくなってしまったのです。彼は三日間目が見えませんでした。そこへイエスの弟子がやってきて、「あなたはキリストの教えを広めるための器として選ばれたのです。」と告げました。そのときパウロの目からウロコのようなものが落ちて、目が見えるようになったのです。それ以後、パウロはイエスの教えを広めはじめ、キリスト教は世界中に広まっていくのです。

 ですから、目からウロコが落ちるとは、ただ分かるということだけではなく、人生が一変するような意味で目が開かれることなのです。あなたは人生を一変するような人に出会いましたか。もし、今の生き方に自信や希望が感じられず、人生を変えてみたいと思っているならば、イエスとその教えが書かれた聖書を読んでみるのはいかがですか。教会ではいつでもあなたをお待ちしております。

    

#(2019年 通巻363号)

閲覧数:16回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page