「平和を考える」
- 1 日前
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最近筆者は、「平和」という言葉の意味を非常に重く感じています。様々な地域で起きている戦争の現実。 日本も軍事費を増やす方向へと舵を切りつつあります。 終戦から80年、国民一人一人が政治に関心を持つ必要を感じます。戦争や紛争は昔から繰り返されてきました。聖書は、人類の現実を美化せず、戦争や争いをもそのまま記録しています。聖書には次の記述があります。
"こうして、モアブはその日イスラエルの手に下り、国は八十年の間、穏やかであった。" (士師記 3章 30節)
これは、士師エフデ率いたイスラエルがモアブの王エグロンを倒した後の平和の期間です。その後、平和は終わり、戦乱の世が再び訪れます。歴史は繰り返されるのです。なぜこんな大昔から戦争は絶えないのでしょう。私たちは、外交努力をし、軍事バランスを考えます。しかし、それでも争いは無くなりません。人の性質に根本的な原因がありそうです。聖書にはまた、次の記述があります。
"あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。"(ヤコブの手紙 4章 1~2節)
聖書は、私たちの内側に人と争うことに傾く性質が存在すると語っています。 そしてその性質は、自分の意志や努力で解消できるものではなく、その解決を神との関係の回復に見ています。 そして、自己中心的な欲望そのものが問題であり、争いを生み出すと語っています。
私たちの内なる性質が、人と人との争いを生み出し、ついには戦争にまで発展させていくのだとすれば、 そのような性質を自分も内側に持っていると認めることが、出発点となるのではないでしょうか。
私たちは仕事において、原因を分析し、解決策を探ります。 もし争いの原因が人の内面にあるとすれば、その解決策もまた、内面にあるはずです。 しかし、自分の内面を分析する機会はどれほどあるでしょうか。 その内面に光を当てる書物である聖書を是非手に取ってみてください。
(2026年 通巻508号)




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