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「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには」


新約聖書の中で、「ある律法の専門家」がイエス様に向かって質問をしている場面があります。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」(ルカの福音書10章25節)。この質問は、いつの時代の、だれにとっても、重要な質問です。


なぜなら、聖書が教えている永遠のいのちは、死んだ後のいのちだけではなくて、その永遠のいのちをもって、今を生きることができるいのちだからです。死んだ後のいのちが保障されているので、今、どのような病の中にいても、今、困難な状況に直面していても、それに耐えて、癒しと解決の希望をもつことができます。


質問は重要ですが、質問者の態度が間違っていました。自分から質問をしていながら、イエス様に対して、「彼は、自分の正しさを示そうとして…」(29節)と書かれています。自分の善良さを誇る自己過信です。聖書の中で、イエス様のたとえ話のひとつである「良いサマリヤ人」の話(10章30-37節)は、この「律法の専門家」に対して話されたものです。


 「傷ついて弱り果てて道端に横たわっている人がいました。地位も立場もある人が二人、時間を前後して、その人を避けて通り過ぎました。そこに、ごく一般のサマリヤ人と呼ばれる人が近づいて、その人を介抱し、宿屋まで連れて行きました」。イエス様は、このサマリヤ人を見習うように、格式のある「律法の専門家」に求めました。


イエス様は、「律法の専門家」が、真の隣人として人類を救うために来てくださったイエス様こそ「良いサマリヤ人」であることに気づかせようとしています。私たちが、ほかの人の真の隣人になることができるのは、自己過信を捨て、自分の隣人として、神が人となってこの世に来てくださったイエス様を認めることから始まります。イエス様こそ人に永遠のいのちを与える権威をもっていることを聖書は教えています。


(2015年 通巻209号)

 
 
 

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